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どうして人は花が好きなのか、なぜ花に意味を持たせるのか。
月刊フローリストに連載している「考花学のすすめ」を定期的に掲載しております。

【第十六回】花見物語

【第十六回】花見物語イメージ

 何年か前のこと。京都を旅した時、おりしも春爛漫で街全体がサクラの花にびっしりと埋め尽くされているかのようでした。思わず迷い込んだ丸山公園にはありとあらゆる人が集い花見の真っ最中。そこには言い尽くしがたい平和で楽しい雰囲気につつまれていました。

 花見の習慣が純然たる娯楽として庶民の間に定着したのは江戸時代のことと言われています。江戸幕府は娯楽事業の一環として上野、隅田川、飛鳥山などのサクラの名所を開放し、花見熱に火が付いたのとことです。しかし、花見がこれほどまでに国民的行事となった背景にはサクラに対する日本人ならではの思いがあります。

 『古事記』や『日本書紀』には木花開耶姫(このはなさくやひめ)という農耕と結びついた女神が登場しますが、ここにある木花とはサクラのことであり、開耶(さくや)がサクラの語源となったという説があります。いっぽうサクラのサは本来、神を意味し、クラは神が座る椅子である座(くら)を意味するということで、神の座がサクラであったとする伝承もあります。いずれもサクラを神聖なものと位置付けていることがとても興味深いのです。

 これはサクラの咲く季節と、花の与える印象のためだと考えられています。サクラの花の季節は3月下旬から4月上旬までで、この時期はちょうど関東から西側の地域における本格的な農作業の始まりと一致しています。サクラの花が農作業開始の合図であった地域が多かったのです。またサクラの花の盛大な咲き方は農耕民であった日本人に自然の豊かな生命力を感じさせ、その感覚がいつしかイネの花が咲く姿と重ねあわされて五穀豊穣と結びついたのだと考えられています。古くから農村ではサクラが咲くと人々がそこに集い、御神酒をサクラにふるまって豊作を祈願したことが知られています。これが後の花見の原型ともいえる習わしです。

 豊作のシンボルであったサクラのイメージを美的に膨らませた貢献者に平安時代末期の僧、西行がいます。西行は武士としての身分を捨て、自然界に自分の心を投影した歌作りに没頭しました。切なくも美しい自然美を追い求めた彼が出会ったのがサクラという友でした。喜び、悲しみ、切なさ、感動。西行はサクラに様々な思いを託し、生涯サクラを歌に詠み続けました。「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」願い通りにサクラの花の季節に命を閉じることのできた西行は私たち日本人のサクラに対する思いを代弁してくれていたのでしょう。生きる力、生命力がくれる感動をサクラは今に伝えてくれているのです。

フローリスト連載2012年4月号より

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